ヨンマルの自己紹介

私のこと

はじめまして。当ブログ運営者、ヨンマルと申します。

インフラセキュリティ系の会社で経営サイドのボトム、現場サイドのトップをしている典型的な中間管理職です。全国の中間管理職の皆さま、毎日お疲れさまです!本当にお疲れさまです。

目指すのは雑記ブログではなく個人ブログ

ブログの成長は、ジャンルを絞って集中するのが鉄則ですが、当ブログは特化型ではなく、いわゆる雑記型に分類される内容になります。

当ブログでは「雑記」よりソーシャルを強くした、ヨンマルという人間の「個人」ブログの構築を目指しています。

記事内容について

本ブログは以下の内容を中心に記事を増やしています。

  • 沖縄
  • 読書
  • 子育て(教育方針・公園情報)
  • 新卒採用(主に高卒採用)
  • 中間管理職(出世と転職)
  • インフラ(ダム・橋・トンネル・道路など)

雑記ですね。分かりやすさを大切にしながら、私自身が楽しく投稿していきます!

運営者 ヨンマルの略歴

長いのでお時間あるときにどうぞ。

1980(昭和55)年 沖縄県に生まれる

第一子で過保護に育ちました。少しの音でも起きてしまう新生児だったそうですよ。ルールを理解するのが苦手で保育園でフルーツバスケットがまったくできませんでした。

「外で元気に遊ぶ」を演じる子だった

「この振る舞いをすれば、大人は喜ぶ」という考えで動く、自分を偽る子供でした。その副反応で家族だけの前では感情を出しすぎで癇癪(かんしゃく)をよく起こしていました。

小学校1年から公文・書道を始めました。公文のおかげで小学校6年間、算数で苦労はありませんでした。車で出かけると5分後には車酔いしてしまう、周囲を気にしすぎて食事ができない、神経質な子でした。

小4 少年野球を始める 高校野球まで

小学校4年から高校3年まで野球を9年続けました。友達がやっていたから流れで少年野球を始めたって感じです。野球への熱はありましたが、熱狂するまでの情熱は思い返すとなかったかもしれません。

6年生になり、女子から誘われて交換日記をはじめました。という事は…と、女子の気持ちを拾えないダメなヨンマル君でした。(成人式で再会したとき、「あのとき好きだった」と言われました。過去形です)

中学時代:今でいう「中二病」。ハブられるが孤独の楽しさを知る

振返ると中学3年間は私の人生の暗黒期です。1年生で暗黒期沼にハマり、3年生で抜け出しつつある周期でした。つまり2年生はどん底でした。沖縄は特に「周りと違う子」はハブられます。なにをやっても上手くいきませんでした。肉体・精神的に暴力を受ける、暴言を言われるという事ではなく、「ヨンマルはいない存在」として扱われた感じです。誰も口をきいてくれないんですよね。

私は3年間の暗黒期で3点を学びました。

  • 群れずに一人でいる自分ってカッコいいなぁ
  • 一人って楽だなぁ
  • スクールカースト(当時は概念すらない)の下でも楽しく生活できるなぁ

中学時代を振り返るのは辛いです。しかし、この経験をしたからこそ以後のキャリアで自分の道を進む、という考えの基礎ができたと思います。ですので、現在はポジティブにとらえています。

高校時代:学校での知名度が上がる。俊足で青春は去った

中学が冬の3年間なら高校は春の3年間でした。

中学でパーソナルの軸を形成した私は高校時代に周りから頼られる存在になります。逆に中学時代に幅をきかせていたグループは「集団でないと何もできない個人の集まり」に変わり果てていました。

そんな彼らは私に対し「高校デビュー」と揶揄してきましたが、私は一人でも平気な人間でしたので、特に気にせず、時代が私に追いついた、と返していました。

野球部では最終的にキャプテンポジションをやりました。近くで練習しているラグビー部にラグビーのルールを教えてもらって楽しそうだな、と感じていました。本当はラグビーがしたかったのかもしれません。

部活のキャプテンを経験した事は20年後の中間管理職の私に活かされています

部活引退後にポケットベルデビュー。この夏、甲子園では横浜高校の松坂大輔が旋風を起こしていました。卒業間際に携帯電話デビューしました。私、松坂世代なんですよ。最初の携帯はDoCoMo P207です。

NでもFでもDでもSOなく、私はPを使い続けました。2010年にiPhone3GSにするまでは。

「光るアンテナ」「三和音」「着信音は本を見て手打ちした」にピン!ときたあなたは仲間です。

進学・就職で県外へ。沖縄出身というだけでチヤホヤされる

沖縄ブームの数年前でしたが、それでも珍しさから声を掛けられることが増えました。最初で最後のモテでした。就職は京都にある上場企業のグループ会社の分析会社でした。分析本部研究開発センターにてダイオキシン分析に従事していました。在籍中に社内からノーベル賞受賞者が出ました。

2022年現在のPCRのような感じで当時はダイオキシンがブーム、社会現象でした。全国からサンプルが届く毎日に残業、そして過労で倒れ入院してしまいました。

プライベートでは社内の先輩に誘われて山岳会へ。登山初心者がクライミングや縦走の魅力にハマっていくのでした。モンベルというメーカーを知ったのもこの頃です。

転職 フィールドへ林業の世界へ

人間関係が良好な職場だったのです。しかし、入院中「1日15時間も研究所にいる生活なんて…」と将来を考える時間が増えました。登山をやっていた経験でフィールドワークをやってみたい!という事で「緑の雇用」制度で林業に転職しました。

岐阜県郡上市に引っ越しました。マイカーは軽トラ(5MT)を購入。車で10分でスキー場、歩いて5分で長良川というIターン移住者を狙い撃ちする条件でした。えぇ、読図とか登山していましたので、段取り重視の林業の業界で可愛がられました。

前職の人へ近況報告という目的でウェブサイト(当時はホームページ)を開設。プロバイダ提供の無料タイプなので、アドレスが例によって長い。

ブログサービスは無かったので、HTMLをタグ手打ちで「日誌」という形で更新。これがリクルート編集部に発見され、雑誌「スカウト」創刊号に載りました。当時のプレスリリース抜粋。

≫ リクルートが雑誌「スカウト」を創刊 20〜30代を対象に仕事や働き方を提案

探したらAmazoにありました。

≫ スカウト 2005年 10月号

廃版で500円→4,500円になっていますので、もし会う際に「スカウト見せて」で現物持参します。25歳の私が載っています。

帰沖を目指し、学校入学費の為、自動車製造期間工に

数年たち、実家より「そろそろ帰ってこないか」ですよ。沖縄の長男あるあるですね。当時25歳。「介護は沖縄でもいっぱい求人があるから戻れ」いやぁ、こんなジョブチェンジはなぁ。あ、ボディケアという「くくり」ならトレーナーやってみるかなぁ。という事で学費を貯めるため、自動車製造期間工に。林業の会長には沖縄に帰る事情を説明してお別れしました。送別会ありがとうございました。

2006年、くたびれてくたびれて8年振りに帰沖する

期間工、全国から「わけあり」な人が来る理由がなんとなく分かりました(笑)。1年半でしっかり稼いで、8年ぶりに沖縄へ。空港が新しくなっていました。

こんなに湿度高かったっけ?と深夜のテレビで流れた琉球泡盛23度のCMを観て「沖縄に帰ってきたんだなぁ」としみじみしたのです。

琉球泡盛23度

スクールに2年間通い、ボディケア・整体・トレーナー業界へ進みます。最初は治療院の施術スタッフとして。後期はトレーニング施設でパーソナルトレーナーとして働きます。1日に11セッションですよ。売れっ子ですね。長時間期勤務で継続が困難と感じ、約10年で業界を離れました。

当時35歳、一生に一度は経験した方がよいと感じていた営業職に。分析経験者だったので、理化学機器販売の営業職へ。

結論は失敗でした。営業先で会った同業他社の担当者や訪問先から「前任者が3ヶ月~半年で辞めている」と情報をもらいました。

確かに上司がダメでした。営業の同伴も無し、名刺のない初日から「この施設に行って売って来い」これだけ。まぁ、意地ですね。上司に聞いても教えてくれないなら、と自分で学びました。皆が3ヶ月で辞めていくポストに、私は粘って1年半。顧客から指名が来るようになりました。

ただ社内の人間関係は、メンテナンス部とは良かったのですが、営業部はダメでした。前任者が出したことのない数字(売上)を出して退職しました。1年半の期間で上司と話した通算時間は15分以下。給与は12万でした。

インフラ系の現場社員募集→本採用される(現職)

手取り12万だった私が現在、3倍の手取りになっています。沖縄では平均より上くらいですかね。前職の上司を見返してやろうという感情もありましたので、前職の上司には感謝ですね。

2016年~

【2022.8月追記予定】

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